市場(取引所)を経由せず、売り手と買い手が1対1で直接に取引すること。金融取引の形態の一つで、店頭(OTC: over the counter)での取引を指す。(⇔取引所取引)
不動産投資な君主であったカラーウーンの死後、マムルーク朝の中央政治は混乱した。アシュラフは在位わずかにして殺害され、幼い弟ナースィル・ムハンマドが立てられるが、やがてカラーウーン子飼いのマムルークたちとアシュラフのマムルークたちとの間で政権を巡る争いがおこり、ナースィルは廃位された。やがてカラーウーン派のマムルークが勝利してナースィルは実権のないスルターンとして復位させられ、1310年に自らクーデターを起こしてようやく親政を確立した。
ナースィルは自身の子飼いのマムルークを登用、領内の検地を行って忠実なアミール(マムルークの将軍)にイクター(徴税権)を授与し、絶対的な支配権を確立した。ナースィルのもとでキプチャク・ハン国と同盟を結んでイル・ハン国との和解も図られてマムルーク朝の内外の情勢は安定し、首都カイロは国際商業都市、イスラム世界を代表する学術都市として栄えた。だが、晩年には積極的な政策が裏目に出て財政の逼迫を招いた。
ワラント、彼の子飼いのアミールたちはその子孫をスルタンに立てて傀儡とし、実権無きカラーウーン家の世襲支配が40年続いた。
1382年、バルクークはカラーウーン家のスルターンを廃して自ら王位に就いた。バルクークはチェルケス人主体のブルジー軍団の出身のマムルークで、バルクーク以降、マムルーク朝の主体となるマムルークがそれまでのバフリー・マムルークからブルジー・マムルークに移るため、この時期のマムルーク朝をブルジー・マムルーク朝あるいはチェルケス・マムルーク朝と呼んでいる。
ブルジー・マムルーク朝では、スルタンの世襲は行われなくなり、スルタンは有力アミールの間から互選で選ばれる第一人者となっていた。この制度のため、アミールたちはスルタン候補となる有力アミールのもとで軍閥を形成し、軍閥同士の派閥争いによってマムルーク間の内紛はいっそう激しくならざるを得なかった。
くりっく365にはペストの流行をきっかけにカイロの繁栄に陰りが見え始め、マムルーク朝を支えたエジプトの経済も次第に沈降に向かった。16世紀初頭にはインド洋貿易にポルトガル人が参入し、1509年にはマムルーク朝の海軍はインドのディヴ沖でポルトガルのフランシスコ・デ・アルメイダ率いる艦隊に敗れた。陸上ではオスマン朝との対立が深まり、1516年、北シリアのアレッポ北方で行われたマルジュ・ダービクの戦いでセリム1世率いるオスマン軍に大敗を喫した。翌年、セリム1世はカイロを征服し、マムルーク朝は滅亡した。
マムルーク朝のスルタンは世襲せずマムルーク出身であったため、支配下のエジプトにおいては非アラブ系の外来者であった。そのため、バイバルスの時代にアッバース朝の末裔(ムスタンスィル2世)を首都カイロで名目上のカリフに立て(マムルーク朝におけるカリフとスルタンの関係は、日本史における天皇と征夷大将軍の関係に例えられることもある。又はカトリック教会における教皇と神聖ローマ皇帝)、またイスラム教の三大聖地であるメッカ(マッカ)、メディナ(マディーナ)、エルサレム(クドゥス)の保護者としてイスラムの慣習に則った支配者としての権威を保証し、当時のスンナ派イスラム世界における盟主となった。
ムタワッキル3世(アッバース朝最後のカリフ)は、1517年にマルムーク朝が滅ぼされた時に、オスマン帝国皇帝セリム1世によってイスタンブルに連れ去られた後、監禁されて子孫へのカリフ位継承が途絶えて消滅した。
外為からバフリー・マムルーク朝期のマムルークは、テュルク系遊牧民やモンゴル人、クルド人が中心で、ブルジー・マムルーク朝期からオスマン朝期にはチェルケス人など北カフカス出身の者が多かった。奴隷商人の手でエジプトに連れてこられた彼らはスルタンや有力アミールによって購入されるとナイル川中州(バフル)やカイロの城砦(ブルジ)に設けられた兵営で軍事教練を受け、奴隷身分から解放されてマムルーク軍団に編入され、特に能力を認められた者はスルタンの側近から十人長、四十人長、百人長とアミールの位へと昇進することができ、宮廷の官職や地方総督職を任せられる有力アミールへの道が全てのマムルークに開かれていた。彼らは解放後も奴隷としての購入者である主人と強い主従関係を持ち、また同じ主人をもつマムルーク同士とは同門として固い同門意識に結ばれた、家族的な結合を誇った。スルタンはかつて同じ主人を頂いた同門のマムルークたちの第一人者であり、スルタン交代にあたっては、前スルタンの盟友や前スルタン自身の子飼いのマムルークの有力者が立って新スルタンとなり、再びスルタンを中心とする同門意識に基づいた人的結合を築きあげることによってマムルーク朝は維持された。
1260年、モンゴルのフレグの軍がシリアに迫ると、クトゥズはバフリーヤの指導者バイバルスと和解し、アイン・ジャールートの戦いでフレグの将軍キト・ブカ率いるモンゴル軍を破った。この戦いの帰路でクトゥズと再び対立したバイバルスはクトゥズを陣中で殺害し、自らスルターンとなった。
外為の事実上の建設者となったバイバルスは、マムルーク朝はフレグの開いたイル・ハン国や、シリアに残存する十字軍国家の残滓と戦い、死去する1277年までにマムルーク朝の支配領域をエジプトからシリアまで広げた。
アイバク以降のマムルーク朝の前期は、バイバルスをはじめとして多くがアイユーブ朝のサーリフが創めたバフリーヤの出身者が占めたため、この時期のマムルーク朝はバフリー・マムルーク朝と呼ばれる。
1228年に、ムワッヒド朝のイフリーキーヤの総督になったヤフヤー1世アブー=ザカリヤーが、ムワッヒド朝がキリスト教徒の傭兵に頼らざるを得なくなって、自らの宗教的権威を否定したことに対し、同王朝の存立理念であったイスラム復興運動、ムワッヒド運動の真の教えと精神を守るという名目で、1229年にアミールの称号を名乗って独立した。
ムワッヒド運動の正統性を再興する手段として権力を握ったというプロパガンダはある程度成功をおさめ、アブー=ザカリーヤの治世において早くもアルジェまで領土を拡大した。この結果、ザイヤーン朝の建国者、ヤグムラーサン・ビン=ザイヤーンもハフス朝の支配下に入り、モロッコのマリーン朝やグラナダのナスル朝もハフス朝の宗主権を認めた。ハフス朝治下では、現在も北アフリカ(マグリブ)で優勢なマーリク派のイスラム法学と、聖者崇拝とがともに発達した。ハフス朝の繁栄のもとで首都チュニスは北アフリカの学問と文化の中心として栄え、イスラム世界が誇る大歴史家イブン=ハルドゥーンはハフス朝で生まれ育った。
また、プロヴァンスやカタルーニャ、イタリア半島の諸共和国から外国人商人が頻繁にチュニスに到来し、ハフス朝治下の北アフリカは地中海交易で繁栄した。1239年には、ハフス朝の君主は、海上交易に従事する権利とシチリアの小麦を輸入する自由権に対する見返りとして、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世に貢物を納めることをはじめた。
ハフス朝のスルタンは、ムワッヒド朝と同様、この時代に他のスンナ派イスラム王朝が行ったようにバクダードのアッバース朝カリフに統治者としての認証を求めることをせず、アブー=アブドゥッラー・ムハンマド・アル=ムスタンスィル(在位1249年 - 1276年)は、1253年にアミール=アル=ムウミニーン、すなわちカリフの称号を自ら称した。アッバース朝がモンゴルによって滅ぼされた翌年の1259年にはイスラム教の聖地マッカ(メッカ)を支配するシャリーフによってカリフ位を承認され、翌年にはエジプトのマムルーク朝にもその地位を認められた。1261年にはマムルーク朝のスルタン、バイバルスがアッバース朝の一族をエジプトに迎えてカリフに擁立し、ハフス朝の君主をカリフと認めるのをやめると、ハフス朝とマムルーク朝は一時的に反目状態になっている。一方で、ハフス朝は十字軍に対しては協力関係を保っていた。
アル=ムスタンスィルの死後、王家のなかで内紛があって一時的に弱体化したが、アブールアッバース(在位1370年 - 1394年)のとき、内紛時に分立した小王国を除くかつての領土を再統一し、ハフス朝を編制しなおすことに成功した。彼は、土地の払下げを廃止するとともに各地の反抗を抑止し、王朝の権威を回復、ハフス朝を再興した。その後継者・アブー=ファーリス(在位1394年 - 1434年)は、内紛時に分立した小王国を再併合し、解放奴隷から選んだ腹心の人物を地方総督に任じて、ハフス朝の再統一事業を完成する一方、再びザイヤーン朝にも支配権を及ぼし、モロッコやアンダルスにまで介入する勢いを示した。このようなハフス朝の力は、次のウスマーン(在位1435年 - 1488年)の治世まで維持されたが、分裂、内乱とマリーン朝やキリスト教徒などの外部勢力の侵攻に悩まされ、政治的には次第に不安定になっていった。