保有しているポジション(為替の持ち高)が、現在の市場のレートで評価した際に損失にある状態のこと。評価損が出ている状況のこと。(⇔フェイバー: favor)
外国為替すると、その存在は1932年まで忘れられたままになった。1932年の大晦日に、地元の農家で発掘家でもあったESJ van Graanと、プレトリア大学卒業の彼の息子が、マプングブエの丘の頂上で大量の工芸品を発見した。彼らはその発見をプレトリア大学教授レオ・フーシェ (Leo Fouche) に報告した。このことが今日につながる発掘の扉を開いたのである。しかし、発掘された工芸品には黄金製のものが多くあったため、盗掘を恐れて発掘当初は秘密に行われた。
工芸品の年代は西暦1000年頃から1300年頃に及び、土器、中国産の青磁、黄色、青、緑のガラスビーズ、金箔が貼られたサイの像[3]をはじめとする黄金の装飾品類、土偶、象牙や骨を加工した製品のような有機的な遺物、精錬された銅や鉄などを加工した製品など様々であった。
フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。「百年戦争」は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。
伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の交戦状態を指すが、歴史家によっては、始まりを1294年5月19日のギュイエンヌ(アキテーヌの別名)押収、終結をピッキニー条約が締結された1475年8月29日とする場合もある。また、エドワード3世がノルマンディーに上陸した1338年や、ギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。
FXのフランスとイギリスの国境線を決定した戦争であり、両国の国家体系と国民の帰属意識は、この戦争を通じて形成されたといっても過言ではない。
百年戦争はプランタジネット家とヴァロワ家との確執によってもたらされた。対立の第一義的な火種はギュイエンヌ問題で、その意義は両家にとって極めて大きい。
1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン欠地王の失策とフィリップ尊厳王の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年にヘンリー3世が聖王ルイに臣下の礼をとることで安堵されたものである。このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ端麗王とシャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。
百年戦争前のフランス王家の家系図987年のユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは1328年、フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立ってイングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張し、フィリップのフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。
FXは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールが都市同盟の反乱により追放されると、フランス王フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイを戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。
13世紀末からイングランド王国はスコットランドの征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡のエドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。
FXによって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世はローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、1337年10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。
百年戦争にいたるまでのヴァロワ朝との関係悪化にともない、エドワード3世は1336年にフランスへの羊毛輸出の禁止に踏み切った。このため、材料をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、 1337年にはアルテベルデの指導によりヘント(ガン)で反乱が勃発、これにフランドル諸都市が追従し、反乱軍によってフランドル伯は追放され、1340年にフランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を宣誓した。
1338年、イングランド王エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地地方(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入した。何度か中世騎士道物語さながらに挑戦状を送り決戦を迫ったが、フランス王フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。
王太子シャルルはこの挑発には応じず、イングランド王軍の資金枯渇による撤退を待ち、1360年5月8日、教皇インノケンティウス6世の仲介による、ブレティニィ仮和平条約の締結を行った。これは10月24日にカレー条約として本締結され、アキテーヌ、カレー周辺、ポンティユー、ギーヌの割譲と、ジャン2世の身代金が決定された。
ジャン2世は、身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとって1364年1月3日、ロンドンに再渡航した。4月8日、ジャン2世はそのままロンドンで死去し、5月19日、王太子シャルルはシャルル5世として即位した。
シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からのみ年貢にたよる方式から国王課税収入へと転換した。彼は1355年に規定された税制役人を整備し、国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。このため、シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにすることとなった。
シャルルは外交による勢力削除にも力を入れる。フランドルはルイ・ド・マールによって平定されていたが、ルイ自身がイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリットとケンブリッジ伯エドマンド(後のヨーク公)の婚姻を認めた。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。1369年には弟フィリップとマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。