■アマウントとは?

外国為替の取引量・取引単位のこと(金額)。 、フロワサールの年代記の挿絵これに対してフランス王軍は直接対決を避け、海軍を派遣してイングランド沿岸部を攻撃、海上輸送路を断つ作戦をとった。両王軍は海峡の制海権をめぐり、1340年6月24日にエクリューズで激突、イングランド王軍はフランス王軍200隻の艦隊を破った(スロイスの海戦)。しかし、内陸部ではフランス王軍にたびたび敗北を喫し、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、1340年9月25日、約2年間の休戦協定が結ばれた。休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。 1341年、ジャン3世が亡くなるとブルターニュ公領の継承をめぐって、ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で争いが起きた。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。 はシャルル・ド・ブロワを擁立するために軍を差し向けナントを攻略し、モンフォール伯を捕らえたが、モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によってブルターニュの平定に時間がかかり、休戦協定の期限切れを迎えたエドワード3世の上陸を許した。このブルターニュ継承戦争は、1343年に教皇クレメンス6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランドはブルターニュに対しても前線を確保することができた。 ポワティエの戦い1346年7月、イングランド王軍はノルマンディーに上陸し、騎行を行った。このためフィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、8月26日、クレシーの戦いが勃発した。フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北を喫した。 ipoは港町カレーを包囲戦の末に陥落させ、アキテーヌでは領土を拡大、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを、スコットランドではデイヴィッド2世を捕縛するなどの戦果を挙げた。クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ6世はこれらに有効な手を打つことはできなかったが、フランドル伯ルイ・ド・マールがフランドルの反乱を平定し、フランドルについてはイングランドの影響力を排除することに成功した。 両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。 1350年、フランス王フィリップ6世が死去、ジャン2世がフランス王に即位した。1354年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。 個人向け国債率いるイングランド王軍は、アキテーヌ領ボルドーを出立し、ブルターニュからの出陣する友軍と合流して南部から騎行を行う予定であったが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子エドワードはこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。 国王ジャン2世を捕縛されたフランス王国では、王太子シャルルが軍資金と身代金の枯渇、王不在の事態に対処するために1356年10月17日、パリで全国三部会を開いた。しかし、敗戦によって三部会の議事進行は平民議員に支配され、特にパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭により、国政の運営を国王から剥奪する案も提出された。 平民議員との交渉は1年以上にもわたって続けられたが平行線をたどり、このためシャルルはパリでの三部会の利用を諦め、国王代理から摂政を自任して、1358年4月から5月にかけてプロヴァンスやコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。これらの三部会で軍資金を得、またジャックリーの乱を鎮圧すると、シャルルはパリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引して7月31日にはエティエンヌ・マルセル殺害に成功した。 資産運用、赤がイングランド支配地域、ピンクが条約で割譲された領土この間、ロンドンにて1358年1月に1回目の、1359年3月24日に2回目の和平交渉が行われており、ジャン2世は帰国を条件に、アキテーヌ全土、ノルマンディー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を承諾した。しかし、王太子シャルルが三部会においてその条約を否決、これを受けて1359年10月28日、イングランド王軍はカレーに上陸して騎行を始めた。 この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子はシャルル6世の子ではないと発言して王太子シャルルの王位継承を否定しようとした)に接近して王太子シャルルを追放した。ブルゴーニュ公ジャンは親イングランドの姿勢を見せていたが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、1419年9月10日にモントローで行われた会談において、王太子シャルルがブルゴーニュ公を惨殺したため、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)はイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。 両陣営は度重なる折衝の末、1420年5月21日、トロワ条約を締結した。これはシャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世をフランス王の継承者とするものである。事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった。 国王代理である王太子シャルルとアルマニャック派はこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、王太子シャルルの廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承認を受け、このためイングランドは着実に勢力を拡大した。 しかし、1422年8月31日、ヘンリー5世がヴァンセンヌにて急死し、10月21日にはシャルル6世が死去したため、事態は再び混迷しはじめた。イングランド王国はヘンリー6世を王位に就けるが、ヘンリー6世は前年の1421年に生まれたばかりの赤子であり、また、王太子シャルルは10月30日にシャルル7世を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。 1431年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世は、ブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年には、フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。 ブルゴーニュとイングランドの同盟解消に成功したフランスは、徐々にイル=ド=フランスを制圧し、アキテーヌに対してはその周囲から圧力をかけ始めた。1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、1444年に行われたロレーヌ遠征の傭兵隊を再編成して、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、国民からは各教会区について一定の徴兵が行われ「国民弓兵隊」が組織されている。 これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディーを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣した。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディーを攻撃し、12月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日、アルチュール・ド・リッシュモン元帥が指揮を執るフランス軍と激突、フォルミニーの戦いにおいて、イングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディー地方を制圧されてしまった。 シャルル7世は、イングランド軍の立て直しを計る時間を与えまいと、すぐさまアキテーヌ占領に着手し、1451年6月19日、ボルドーを陥落させた。ボルドーは翌年10月にイングランド軍に奪還されるが、イングランド軍の劣勢はいかんともしがたく、1453年10月19日、再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。 この戦争の後、イングランドでは薔薇戦争が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権は著しく強化され、テューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生したが、国内が統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。 ヘンリー6世以降のイングランド王は、百年戦争以降も「フランス王」の称号を用い続けた。これはステュアート朝まで続いており、ジェームズ1世以降はフランス、イングランド、スコットランド、アイルランドの4ヶ国の王を称した。